意図なき意志は、果たして存在しうるのか。
私たちは時に、こう思うことがある。
「どうしてあの人は、そこまでやり続けられるのだろう?」
「なぜ自分は、わかっているのに動けないのだろう?」
また、
日々の中で「やろう」と決めたことを、何度となく挫けそうになります。
続けようと誓った努力も気分が乗らない日には手を止めてしまうこともしばしば。
そんなとき、私たちはよく「感情に流された」と言います。
不安、面倒くささ、怖れ、焦り、自己否定。
感情は、ときに理性の声をかき消し、行動を止める強烈なエネルギーとして働きます。
では、どうすればその感情に打ち克ち、望む行動を選び続けられるのでしょうか?
その答えが意志の力だ。
ただし、意志は突然生まれるものではない。
強力は意志には「意図」も必要である。

意図とは「選ぶ」こと。意志とは「貫く」こと。
「意図」は、行き先を決めたスマホの地図アプリのようなもの。
一方で、「意志」は、その地図を見ながら雨の日も風の日も歩き続ける足であり、心のエンジンだ。
たとえば、「いつかカフェを開きたい」「もっと自由に働きたい」と思ったとする。
それは、目的地を設定した瞬間。つまり意図だ。
そして、実際に
朝早く起きて開店前のカフェを覗いてみたり、
空いた時間に資金計画を立ててみたり、
時には不安や迷いを感じながらも、やっぱり「続けてみよう」と前に進む。
その一つひとつの小さな積み重ねが、意志。
意図がなければ、意志はただの頑固さや惰性になってしまう。
どこへ向かうのか分からず、ただ同じ場所をぐるぐると回り続ける“力の浪費”になりかねない。
だから、基本的には——
意図なくして意志は生まれない。
だが、話はここで終わらない。
無意識に潜む「隠れた意図」
私たちは自分の意図を常に言語化できているわけではない。
むしろ、自分でも気づいていない「無意識の意図」が意志のような形を取って現れることもある。
たとえば:
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「ずっと一人でがんばってきた人」が、なぜか誰にも頼れずに突き進んでしまう
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「人に認められたい」という想いが、過剰な努力として表に現れる
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「失敗すると見捨てられる」という無意識の恐れが、挑戦を続けさせる
これらは明確な「意図」として自覚されていなくても、内面にある“願い”や“恐れ”が行動を突き動かしている。
つまり、「意志」のように見える行動の背後には、自分でも知らない意図があることが少なくない。
これは意図であり望む意図ではない、厄介な存在である。
しかし私たちの多くはこの『隠れた意図』に意志を支配されている。
意志に見えて、実は反応であることも
注意すべきは、「意志のように見える行動」がすべて本物の意志とは限らないということだ。
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自動的に繰り返してしまう行動
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人から刷り込まれた価値観に従った“頑張り”
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「やらなきゃ」という義務感で動き続ける姿勢
これらはあるべき意志ではなく、「無意識の反応」や「習慣的な自動運転」に過ぎない場合もある。
大切なのは、それが自分の選んだ意図に根ざした意志なのかどうかを、立ち止まって問うことだ。
自分の意志を取り戻すために
本当の意志とは、内なる意図に根ざしている。
それは他人の期待や、恐れや、世間の常識によって生まれるべきものではない。
では、自分の意図を取り戻すにはどうすればいいか?
まずは、問いを立ててみよう。
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「私は何のために、それをやりたいと思ったのか?」
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「それは誰の期待に応えようとしているのか?」
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「もし本当の願いがあるとしたら、それは何か?」
そして、その問いに対して出てきた小さな答えの種を、何よりも丁寧に扱ってほしい。