さて、元旦も1週間も前だ。
元旦の朝、親戚が集まり、お年玉をそれぞれの子供にあげた。
今日、ふとその後あのお年玉はどうなっているのだろうかと思った。
大人になって思う。
自分が子供の時、「お年玉、お母さんが大きくなるまで預かっておくね」の我が家にとってお年玉はマギーシローの手品と同じだった。
なんかお金がもらえたと嬉しい気持ちにはなるけど、手元には
あれ??ないねー。
私が子供だった時はお年玉は全て親に渡していた。
というより「貯金しておいてあげるから」と強制的に回収されていた。
中学校までは全額である。
その時は嫌だなぁと思いつつも素直に渡していた。
学校ではお年玉をいくらもらったかなんて話題になり、子供ながらに金額を上乗せして答え、見栄を張っていた記憶がある。
今思うと笑える。
親に没収され自分の手元にないのにもかかわらずである。
子供がいる同士の家庭はほぼ協定が結ばれており誰からもらっても同じ金額だった。
親からしてみればお互いの子供にあげる、お金とお金を交換しているだけなのは大きくなるにつれ知った。
おじいちゃん、おばあちゃん、羽振りのいいおじさんのお年玉だけが真のお年玉だった。
そして高校生になって少しは自分の手元においておくことが許され、当時欲しかったCDを買ったりしたことを覚えている。
大学生になって、お年玉もほとんどもらえなくなり、
どうせ子供の時のあの「お年玉の貯金しておくね」のお金は高校の学費やなんかで使われてしまっているのだろうと諦めていた。
それが大学を卒業するとき母親が
「これがあなたのお年玉を貯めておいたお金ね」と渡してくれた。
本当に貯金していてくれたことに少しばかり驚いた。
マギーシローの手品ではなかった。
金額は10万円ほどだった。
その金額が正確にもらっていたお年玉と同じなのかはわからない。
でもまぁそんなものだろうと思う。
ただ、その時正直思ったのが「毎年貯めてくれていたのにこれくらいかぁ」だ。
気持ち的には100万円くらいあると感じていたから。
子供の時の3000円と大人の3000円では価値が違う。
きっと小さい時に10万円もらっていたら興奮して眠れなかったかもしれない。
自分がお金を稼ぐようになって3000円や5000円の重みは明らかに軽くなった。
買いたいものも増え、金額も高くなった。
子供の時にもらったお金はすごいなんでも買える大金に思えた。
そりゃ、お金ですし大切です。
でも大人になって感じたこの気持ちに考えさせられるものがあった。
自分の子供には子供の使い方に一任するか、
一緒にそのお金でその時に子供が必要なものを買う。
もしくは正直に「あなたの教育のこの部分に使うよ」と説明しようと思う。
そしてその時のお金はその時のお金の重みで使うことが幸せかもしれないなと
感じています。
もちろん、無駄遣いはしませんけど・・・
本日もお読みいただきましてありがとうございました。